昔住んでたマンションから駅へと向かう途中に小さな橋があって、そのふもとに1人座るのがやっとのベンチが1つだけ設置されていた。
いつ通りがかってもひと気がなく、なんのための、誰のための場所なんだろうと不思議だった。
ある日、ベンチの横に青いスニーカーが落ちていた。たまに落ちてる靴は見かけるけど、そんな時はたいてい片足。左右そろって落ちてるのも珍しいので写真に撮った。
その夜、ふたたび通りかかると靴はなくなっていた。ゴミとして回収されたのだろうか。
3日後、同じ場所に革靴が置かれていた。
「住民同士がそれぞれの靴をここでトレードしてる??」「実はここ、靴の姥捨て山で、履かなくなった靴は置いて帰る習慣がある??」などと、この現象にさまざまな他愛もない妄想をしたものだ。
真実を突き詰めない、正解を出さなくてもいい。
そんな気軽なスタンスで物語を空想してみると、見慣れた風景が自由自在に変わっていく。
「ハート型に見える洞窟」にカップルが集ったり、「人の顔に見えるシミがある事故物件」におびえたりするのも、物語の空想の効果と言えるだろう。
無機物を擬人化して共感をしたり、似ているものに見立てたり、人の営みや人間ドラマを膨らませてみたり。
・見立てる
・擬人化して共感する
・人間ドラマを想像する
・美しい構図を見出す
など、さまざまな手法で空想をしているマニアさんの実例を紹介しよう。
■中島由佳(ゴムホースマニア)ー見立てて、まちと共感する
ホース撮影歴10年以上。いままでに撮影したホースの数、約3000本。
世界には美しいものがたくさん溢れていることを伝えるため、ゴムホースの写真を撮影している。
この写真を見て、あなたはなにを思うだろうか?
ゴムホースマニアの中島由佳さんは、自転車用のチャイルドチェアが子どもの顔に見えるという。
穴が目で、下の赤いシールが口、足をひっかけるところが手。毎朝、この子と目が合うから、いってきますと心の中で挨拶をしているそうだ。
そんな「見立ての視点」を持った中島さんにお話しをうかがった。
●見立てる
同じものが2つ以上あると、人間的な関係に見えるんですよ。人間じゃないんだけど、2つの物の関係性を考えちゃう。
たとえば空き缶が2つある。1つは劣化してて、1つはすごいキレイなまま。同じ物なのに、ちょっと違うなってところに「なんでだろう?」と疑問が出て、そこから物語が生まれます。

●擬人化して共感する
大学3年生の秋、吉祥寺のフグ料理屋さんでフグに出会ってビビっときて、1時間撮り続けていたことがあります。
せっかく大学に入れさせてもらったのに、なかなか就職活動うまくいかなくて。大学で能力をつけたのに活躍できない自分自身と、毒を持ってるのに無意味で、自分を食べるお客さんを自分の姿で引きよせて食べられちゃうフグが似てるって感じたんです。
●視点の見つけ方
最初は武者修行的に「今日1日、女の子100人とかいい景色100枚じゃなく、いつもと違う写真を死ぬほど撮る!」と決めて撮ってました。
そうすると「今の自分が目につく物の範囲って、これが限界なのか…」と分かります。それをふまえて他の人の作品を見ると、こういう視点もあるんだって広がります。そういうインプットとアウトプットの連続です。
月1回ぐらい、すごい勢いでカメラロールをスクロールして、撮った写真を見返しています。なにが面白いか言語化できてなくても、気になった物を撮ってるんですが、あとあと見返すと「ああ、あの時って仕事が大変で悩んでて、共感できたんだな」とか「意外と落ちてる果物、たくさん撮ってるな」とか発見があります。
●新しい視点を手に入れて、なにが変わったか
ゴムホースもきれいだよとか言いつつ、プライベートの私自身としてはまだまだ固定観念に縛られてて。でも、撮った写真を見返して「これ、なんかに見えないかな」なんてやってると、退屈な時間もなくなりましたね。

■藤田泰実(落ちもんマニア)ー道に落ちているものから見える、まちの人間ドラマ
路上に落ちている食べかけのホットドックから便座まで、心に引っかかった「落ちもん」を撮り続け、その背景を空想して物語にしている。
電柱の脇に転がったスプレー缶。「ゴミ」としてただ通り過ぎそうな光景だが、「落ちもん写真収集家」の藤田泰実さんの手にかかれば、こんな物語が生まれる。
“「自己嫌悪の抜け殻」
あの子も来る会社の新年会。
気合を入れて持って来たヘリウムガスでモノマネしたら・・・。
母さん、都会の朝は、聞いてたよりも寒いです・・・。”
藤田さんはこのように、道に落ちているものを「落ちもん」と称し撮影し、背後の人間ドラマを妄想している。藤田さんの視点をインストールすれば、何気なく通り過ぎてしまいがちな風景に意外な人間味や美しさが浮かび上がってくる。
●人間ドラマを想像する
昔から、新しい建物よりも古い神社が好きだったりと、その人や物が持つ「らしさ」に惹かれます。
落ちもんに惹かれるのも、そこに落とし主の人間味が見えてくるから。
コロナ禍ではマスクが大量に落ちていたり、冬は風邪薬が多かったりと、落ちもんから時代や季節が見えることも。
発見した落ちもんから妄想を広げる際は、まず男性?女性?など、主人公となる人物を決め、その人物なら何をするかな?と想像します。その時の自分が一番感情移入できる人物にすると、妄想が膨らみやすいですね。
ストーリーを作る際には、なるべく笑えて、ちょっと切ない内容を心がけています。
道にバラバラの状態で落ちていたパズルを見たときは、こんなストーリーが浮かびました。
“「永久的未完成」
同棲を始めた時に買ったパズル
一緒に完成させようって言ってたのに
お互い なんだか忙しくて
完成されないまま
時間だけがたってった
この部屋を明け渡す時、
一度も完成されなかったパズルが、
なんだか自分たちのようで
このまま置いてくことにした”
発見した場所の特徴から妄想が膨らむことも。たとえば新宿・歌舞伎町に、革靴と書類、その横に大量に名刺が落ちていたら、「普段真面目な人が飲みすぎた」といったストーリーが浮かんできます。
作ったストーリーにBGMを当てて朗読もしています。そうすることで、感情や空気感がさらに伝わる気がするんです。
●美しい構図を見出す

落ちもんのもう一つの楽しみ方は、目で見て楽しむこと。
「絶対に触らない」というマイルールで、真俯瞰もしくは真横から、落ちもんとその周囲の風景が作り出す偶然の美しさを切り取ると、地球上で今そこにしかない色面構成を視覚的に楽しめます。
色面構成の美しさを伝えるため、写真から要素を取り出しイラストで表現する、という試みもしています。

●視点を手に入れて、どう変わったか
「落ちもん」の写真を撮り始めたのは、当時勤めていたデザイン事務所で毎日寝る時間もないほど仕事に追われていた時でした。
デザインの仕事は、きらびやかなものばかりを扱いがち。「キラキラしているものより、注目されないものの方が大事なんだ!」という反骨心もありました。
落ちている石ころやゴミだって、切り口や価値観をちょっと変えれば、面白みのある風景になる。落ちもんを撮影しアウトプットするという行為を通し、感覚的なことを言語化したり、多面的に物事を見れるようになりました。
それは、デザインの仕事にも生かされていると思います。